六甲八幡神社の由緒

主祭神    八幡大神 天照大神 春日大神

摂末社  厄神宮 金毘羅宮 稲荷宮 庚申社



本社の創紀については諸説あっていずれとも決めにくい。

円融天皇の代に水原武信という者が八幡宮に祈り二子をもうけ、
その二人の子も八幡宮の神助を蒙ることたびたびであり、
後一条天皇の万寿三年(1026)この地に八幡大神をまつり崇敬したという。

また他の説では平清盛の福原遷都の折に男山八幡を勧請して
成瀬という旧地名を八幡(やはた)に改めたのが起源であるという。

このほかにも、花園天皇の正和年中(1312-1316)勅命により
豊前国宇佐八幡を勧請したとも伝えられている。




「太平記」元弘三年(1333)摩耶城合戦の条に
「八幡林」の名があるのはこの社の森のことである。

戦国時代の頃は荒廃していたが、
天正年中(1573-1571)に林播磨という者が修築し、
その孫である林清兵衛が寛永七年(1630)本殿などを改築した。

さらに領主の石河氏が奈良の春日大社の旧社殿を移し、
社殿を造営したのが現在の建物であり、
平成28年3月23日に神戸市指定有形文化財(22号)に指定された。

また、厄神宮本殿は兵庫県重要文化財に
昭和50年3月18日(143号)に指定されている。

斗きょう部、蛙股並びに妻組など細部手法もそのころの技風を存する。
向拝柱間を一間として、三間社の通則を破って広く構えた平面意匠は、
この種建築の平面形の変遷を知る好い違例である。
一部に欠失した箇所(昇り高欄身舎の正面戸溝)や後補にかかる部分(縁高欄)もあるが、
全体としてよくまとまっており、貴重な遺構である。

なお、天正廿暦庚辰七月廿三日・・・・・・・の銘板三枚
奉造立一宇寛永七年云云
文政五午年八月三日云云
の銘のある修理棟札も保存されている。



古くから「摂津八幡」とも「摂津国石清水八幡宮」とも言われ
「一国一社」の称号も伝えられている。

徳川の頃、江戸の酒問屋の信仰篤く、灘の清酒を回漕する際に祈願しており、
江戸茅場町紙屋八左衛門、鴻池太郎兵衛、小西利作、
江戸北新川の播磨屋新右衛門、江戸南新川の尼屋利兵衛、
鹿嶋庄助、池田屋喜兵衛等の名も見える。

また領主石河蔵人源貞貴、壱岐守源貞通、
伊予守大江朝臣成美公の名も記録に残る。



由緒は遠く古代まで及ぶ。